2010年7月3日の説教要旨

「異邦人の光なる神様」

使徒言行録 13章

アンティオキア教会は異邦人教会の中心教会である。また、主イエスの教会がいつも立ち帰らなければならない教会の原点でもある。アンティオキア教会はいろいろな人々が賜物に従って奉仕をしていた。第1に、ユダヤ人がおり、黒人がおり、領主と共に育った人もいた。多種多様な人々の集まりである。第2に、礼拝を守り、断食をし、祈り、聖霊の導きを求めていた。断食は礼拝や祈りを食事よりも優先することである。彼らは、聖書に聞くこと、祈ることが終わるまで断食した。第3に、アンティオキア教会は教会にとって大切な人を奉仕者として送りだした。どの時代も、教会が信仰に燃えている時は多くの伝道者を送りだしている。信仰に生きている教会は、自分たちのことを第一に考えたり、自分の教会のことだけ考えていない。アンティオキア教会で最も大切なバルナバとパウロをキプロス伝道に送りだしている。それは、教会の希望ではない。礼拝を守り、断食し、聖霊の導きを求めていてから出来たことである。欧米から明治時代に日本に送り出されてきた宣教師たちは、帰れば大学の学長や教授に迎えられるような、立派な人々であった。彼らには教えてやろうという傲慢さはなかった、キリストに仕えること、主イエスを通して神様から頂いた救いの恵みを分け与えたいとの心であった。信仰に燃え、生きている教会は、自分たちのことを第一に考えたり、自分の教会のことだけを考えていない。教会は難しい聖書の知識や学問を必要としない。必要とすることは御言葉に聴従する交わり、祈りの交わりである。

信仰において、願いや希望を何週間、何ヶ月祈り続けて、その結果を神様の御心と受け入れることが大切である。主イエスは十字架を前にして、「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ福音書14:36)と祈っておられる。私たちの祈りはどんなにわがままであってもよい。しかし、最後には、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」との祈りを忘れてはならない。教会は自分たちで考えて何かをするところではない。先ず、祈って神様に聴くこと、神様に導かれることを大切にするところが教会である。

パウロとバルナバは聖霊によって、キプロス伝道に送り出された。そこでユダヤ人の魔術師バルイエスという偽預言者に出会った。「バル」とは小さいという意味で、「小イエス」と名乗っていたのでしょう。パウロは聖霊に満たされて魔術師バルイエスを、「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵」と非難した。私たちも自分自身を聖書について、信仰について正しく知っている、「小イエス」のように誤解してはならない。正しい信仰を持っているかのように振舞うことは偽善である。自分は知っていると言い張る傲慢が偽善である。「私は何も知りません、神様、教えてください」との祈りが信仰である。

洗礼を受けているから、教会生活が長いから、聖書を読んでいるから、自分を「小イエス」と思ってはいけない。その傲慢な誤解を聖書は偽善者、悪魔の子、正義の敵と教えている。また、「小イエス」は権力者である地方総督に近づいた。強い者に近づく姿も偽善である。主イエスは、弱い者、悲しむ者、病める者、罪人に近づかれた。いつも教会は主イエスに聴従する「主イエスの僕の教会」から、「小イエス」の教会、すなわち、「私の教会」に変わる危険性を持っている。教会の私物化である。それは誰もが持っている危険性である。

現状に満足していたユダヤ人たちは主イエスを受け入れなかったので、主イエスは異邦人の方へ行かれた。私たちも、今の自分の信仰生活に満足してはならない。主イエスの助け、補い、修正を願い祈る教会となろう。

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