2012年3月4日の説教要旨

「無に等しい者を選ぶ神」

コリントの信徒への手紙一 1章18節〜31節

神様と共に生きるためには、神様に頼り切る愚かな者が必要である。神様を信じ切る愚か者が必要である。しかし、この世を生きるためには、愚かな者ばかりでも困る。人間社会では、愚かでない人、賢い人、知恵ある人が必要である。賢い人は、自動車で言えばアクセルと言える。自動車を進めるために必要である。信仰者の愚かさは自動車のブレーキと言える。賢い人の暴走を止める役割である。

主イエスの教会には知恵ある学者も、能力のある人も、地位のある人もおられました。それらの賢い人々も教会にはなくてはならない。教会を動かすアクセルである。しかし、神様は、賢い人々がアクセルをいっぱい踏みこんで、暴走する危険性を避けるように、暴走する人間にブレーキをかけるように、愚かな人、無力な人、無に等しい人、身分の卑しい人、見下げられている人をあえて選ばれ、教会に招いておられる。それは、人間のずる賢い知恵に生きる人ではなく、キリストを宣べ伝える愚直な愚か者を必要なのです。自分の知恵や経験を誇る人ではなく、主イエスを誇る愚かさが求められている。

神様を畏敬する心を失って、この世の権力者がアクセルをいっぱい踏みこんで暴走していた中世ヨーロッパで、心ある修道士が挨拶代わりに、「メメント・モリ」(死を覚えなさい)と人々に語り続け、ブレーキ役を果たした。

主イエスの十字架の赦し、贖い、祝福をいただいた者は、どこにいても、神様の暖かさを感じることができる。自分が中心にならなくても、自分に光が当たらなくても、見下されても、無視されても、主イエスの愛を想起して、私から奪うものはすべて奪いなさいと思える。私には、主イエスの十字架から差し込んで、私を包んでくれる神様の愛に触れたている喜びを感じる。主イエスへの信仰以外の何もいりませんと、僕(しもべ)に愚直に徹する信仰者が教会にも、社会にも必要である。

ファリサイ派や律法学者や祭司たちのように、人に誇れる知恵や知識が、主イエスの前に受け入れられるものではなかった。人間の知恵には、主イエスを救い主と信じる信仰と交換できる価値は無い。神様の一方的な赦しの愛の暖かさに触れた者にとって、主の礼拝を守る以外に大切な価値あるものはない。しかし、それは、この世的には愚かなことでしかない。聖書より価値ある読み物はない。神様を讃美する以外の喜びの歌はないと言い切る信仰は、この世的には愚かなことですが、私たちにとっては、何ものにも変えることできない宝である。

今朝の御言葉は、私たちに、喜びと怖れを与える。無学な者、無力な者、卑しい者、見下げられている者をあえて選ばれる神様の深い愛にただただ驚き、感謝するばかりである。しかし、この世の賢い者、知恵ある者、力ある者、地位のある者の前に立つことの恐れがいつもある。御言葉を語れる光栄と喜びと、出来ないことをしている恐怖に近い思いがいつも交差する。講壇に登れる光栄と一刻もはやく降りたいと思う畏れがいつもある。

私たちが、「神様」と言う時、このように神様をイメージしているだろうが、また、「私たちの知恵、義と聖と贖い主であるイメージを持っているだろうか。神様とは、私が必要とする全ての知恵である。それは人間の世界で価値ある知恵ではないかもしれない。しかし、神様に祝福される知恵である。知恵は義である。人の知恵では不可能な、罪を赦す知恵である。また、知恵は聖である。神様の前に立つことが赦される知恵である。また、神の知恵は贖いである。贖うとは血縁関係を意味する。神様は、私のような、愚かなものを、我が息子、我が娘と認知してくださる。神の子としての相続が与えられている。この神様のプレゼントよりもあなたが心を惹かれるものは無いでしょう。あなたが誇りとするものは、十字架の主以外に無いでしょう、とパウロは語りかけている。今日から、何を誇りとして生きますか。主イエスを、十字架の主を誇りとして生きましょう。

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