2010年4月18日の説教要旨

「聖霊と祈り」

使徒言行録 2章

復活の主イエスによって再び集められた弟子たちの心は複雑であった。主イエスを見捨てて逃げ去った負い目があった。弟子たちは主イエスの母マリアたちの顔を見るのも辛かったことでしょう。初代教会は交通事故の被害者と加害者が集まったような状態の中で、心を合わせて祈っていた。

なぜ、彼らは一緒に集まって、心を合わせて祈ることが出来たのでしょうか。彼らは、互いに直接見つめ合ったのではない。彼らは聖餐台を通して見つめ合っていた。彼らは心眼で十字架の主イエスを見つめていた。相手と自分の間に十字架と復活の主イエスを想起して、相手を主イエスに愛された人、赦された人として見つめ合っていた。それが主イエスの教会の姿である。

教会は気の合う者の集いではない。気の許せる者の祈りの場ではない。主イエスの聖餐台を見つめて集う、祈る交わりである。それは、交通事故の被害者と加害者が一室に集ったようなものである。逃げ出したい思いを胸に抱きながら、「約束を待て」との主イエスの御言葉を信じて待った。それも、一日や二日ではない。50日間、来る日も来る日も、針のむしろに座らされたような思いで、心を一つにして祈っていた。そして、50日目に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊にみたされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(3〜4)。

聖霊を受けるとは「言葉を与えられる」ことである。ほかの国々の言葉で語り出した(4)ということは外国語を語り出したと言うよりも、言葉を越えて相手と通じ合える力を与えられたことを意味する。同じ日本語を語り合っても、親子でも、お互いに通じ合わない昨今である。

また、聖霊は、「悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しを求める者に与えられる力(38)である。弟子たちは、主イエスを見捨てたことを悔い改め、赦しを求め、洗礼の意味を新たにしたことでしょう。主イエスの教会は、心の底から悔い改めること、赦しを求めることから始まった。私たち一人一人が悔い改めることを忘れますと主イエスの教会でなくなってしまう。教会は、ルカ18章の徴税人の祈り、「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」との祈りを忘れてはならない。

初代教会は、心を合わせて熱心に祈る交わりを通して、赦されるべきでない者が赦されていることの喜びに満たされた。そして、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(44)。これが初代教会の姿である。

地の果てまでの伝道の使命は、外国人や他人に伝道することを意味しない。教会が心を一つにして、神様の導き、聖霊の導きを求める共同体を形成することである。その時、教会は人々から好意を寄せられ、人々が集まるのである。

初代教会の人々は、人に伝道しようと意気込むよりも、心から神様の前に、懺悔と主イエスの復活への感謝の祈りをささげていた。それが伝道となった。その信仰の姿が多くの人の共感を得た。聖霊の導きを求め、祈りと讃美の生活が主イエスに祝され、主の御用に用いられ、伝道の使命を果たすことが出来た。

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