2012年5月27日の説教要旨

ペンテコステ特別礼拝「聖霊の賜物」

ヨエル書2:25〜3:5、使徒言行録2:1〜13

キリスト教会では、3つの大切な特別礼拝があります。一つは、主イエスの御降誕の「クリスマス特別礼拝」、一つは、主イエスの復活の「イースター特別礼拝」、もう一つは、今日の聖霊が降臨し、教会の誕生の「ペンテコステ特別礼拝」です。

ペンテコステとは「50番目」という意味です。ユダヤ人がエジプトの奴隷から解放された記念として「過越の祭」を守っていました。出エジプトから「50日目」に「十戒」が与えられたと信仰的に理解されています。

主イエスが十字架にかけられたのが、「過越の祭」であり、それから「50日目」に聖霊が注がれ、教会が誕生したのです。

人間は神様から自由を与えられました。ただし、一つを除いての自由です。100の内99が許され、1つだけは許されない自由です。先週も引用しました、エデンの園の善悪の知識の木について、エバは、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」でも、園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(創世記3:2〜3)。人間とは、英語で「human」と言いますが、この「hu」は接頭語で「限界がある」という意味です。人間とは、道路の速度制限のように、越えてはならないことがあるのですよ、との意味です。どの木の実をたべても自由なのですが、中央の木の実は食べてもいけない、触れてもいけない。この限界を知り、守る者が神様と共に生きることができるのです。ところが、アダムとエバは食べて、エデンの園を追放されました。

この一つのことを守ることを聖書は一貫して語りかけています。自由であるが、一つの不自由を覚悟しなさい。その一つが神様を畏敬することであり、祈ることであり、神様を礼拝することであり、神様の御言葉を守ることであり、御言葉に従うことであると、聖書は教えているのです。

ところが、人間の歴史は、この守らなければならない一つの約束を守ることを最も嫌い、憎んで来ました。その見える「しるし」が、主イエスの十字架です。人間は、どんな悪よりも神様の存在を嫌い、除外したいのです。

マルコ12:1〜8「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕(しもべ)を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」

人間は、神様を人間社会に不必要なナンバーワンのように、この世から追放してしまった。耳を傾けるべき預言者を殺し、追放してきたのが人間の歴史です。罪に罪を、悪に悪を重ねて来た人間は神様に裁かれて当然です。しかし、主イエスを十字架にかけて、この世から追放した人間を神様は裁かれません。主イエスと言う光を追放した人間を神様は闇に棄て去っても当然ですが、神様は、主イエスを捨てたこの世に復活させ、再び、この世の光とされました。そして、このペンテコステには、一人一人の内に神様の霊を注いでくださる。驚くべき大きな愛である。

主イエスの復活の後、弟子たちは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(使徒言行録1:4)との主イエスの御声を思い出し、エルサレムに帰って来た。

使徒言行録2章1〜4「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(4)すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とか書かれています。これがペンテコステの出来事です。

使徒言行録1:12〜15 「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。・・・百二十人ほどの人々が一つになっていた。」

彼らの心は、主イエスを正しく理解できていなかった後悔と裏切った後悔で満ちていた。どうしていいのか分からない中で、祈るしかなかった。現代人のように、誰かを責める心は無かった。神様への、「ごめんなさい。」主イエスの母と兄弟への、「ごめんなさい。」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」以外の祈りは、おそらく、彼らの口からでてこなかったことでしょう。心は空っぽであった。人は自分の心を空しくした時に、神様は、一人一人に聖霊を注がれた。その聖霊の賜物は何であったでしょう。

世界中から「過越の祭」に外国から帰って来ていた人々が母国語で語り出したことです。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(11)と驚いています。人の悪口ではない、誰かの批判ではない。神の偉大な業を語り、相手が受け入れる優しさを聖霊は与えて下さるのです。聖霊の賜物とは、外国人にも、神の偉大な業を語り伝える力が与えられることです。教会は、神様から、外国人にも神の偉大な業を語り伝える使命を与えられた。それは難しい事を上からの目線で語る心ではない。相手が受け入れる優しい心、思いやりの心で伝える心です。

外国人どころか、国内の人々や家族に、神の偉大な業を語り伝えられない現実がある。私たちに、教会に欠けているのは、空しく一つになって聖霊を求めて祈る心です。教会の誕生の時のように、静かに真剣に、聖書に耳を傾けながら歩み、聖霊の賜物を与えられるように祈りつつ歩みましょう。一人一人が聖霊を求めて祈り、そして祝福されて、神様の偉大な業を見させていただきましょう。

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