2011年6月12日の説教要旨

「聖霊の賜物を喜ぶ」

士師記15:9〜20、使徒行伝2:1〜13

人は誇り、尊厳、希望などを失っては生きていけません。また、生きる意味も見出せません。しかし、同時に、人の誇り、自慢、自信、うぬぼれは神様を拒否する原因となることを忘れてはならない。民族や神様を信じる誇りや希望が、他宗教を信じる人や他民族への軽蔑、差別、迫害の原因となることは人間の歴史が証明している。

主イエスの生涯は、その尊厳を奪い取られるものでした。特に十字架にかけられるために捕えられる前後は、ユダの裏切り、ペトロの拒否等、弟子たちの無理解、誤解を受けた。また、祭司や律法学者や長老は偽り証人を立てて、責められ、侮辱され、殴られ、ののしられ、ムチで打たれ、たたかれた。また、ユダヤ人の同胞からも「殺せ、殺せ」の大合唱の中で、十字架へと歩かされた。人間としても尊厳はなく、屠り場に連れて行かれる子羊の姿でした。

マタイ福音書5章の「山上の説教」の最後で、主イエスは「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(11)と教えている。この御言葉を忘れてはならない。

日本では、自殺者が13年間も3万人を変えている。いじめも、差別も、自殺者の多さも、実は教会が問われているのである。教会は、苦悩の中にいる人々に、「主イエスを見上げよう」、「主イエスを復活させた神様の約束を想起しよう」と呼びかけることを忘れている。あなたの苦難は神様の前に覚えられていることを伝える使命を教会は委ねられている。希望が見いだせなくなっている家族や自分の存在さえ否定されている人々に、「この人を見よ」と主イエスを指し示す教会の使命で忘れてはならないある。

デズニーランドのミッキーマススらの「縫いぐるみ」は子供たちだけではなく、若者たちにも大きな夢を与えている。縫いぐるみには、踊ったり、動く力はない。その中に人間が入って、初めて夢を与えることができる。それでは、中に入っている人に価値があるからと、子供たちの前に、ぬいぐるみを脱いで現れると、子供たちにとって興ざめである。ミッキーマウスのぬいぐるみとその中に入って踊る人がいて初めて人に喜びや希望を与えることができる。

創世記2:7で「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と教えている。人が人として価値があるのは神様の「霊」を内に注がれることである。本日の旧約聖書のサムソンも神様の霊を注がれ、内に霊を迎え入れていたから、特別な力を発揮できた。

私は、誰の助けも必要としない、自分の力で生きていると思うことは、成熟していない幼稚な考えである。自分の力でどうすることも出来ない壁に当たることは、不幸な体験ではなく、豊かな大切な体験である。す。誇り、エゴ、自信が打ち砕かれるような体験、ギブアップした時、人は神様の御言葉、聖霊を受け入れる時である。神様が受け入れて下さるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではない。くだけた魂、ごめんなさい、助けて下さい、憐れんでくださいとの悔いる心である。

ルカ福音書15章に「放蕩息子」のたとえが書かれている。金持ちの息子が、相続を使い果たし、豚の世話をしていて、豚の餌でも食べたいと思うほどであった。人間としての全ての誇りを失った時、彼は「我に返って」父のところへ帰った。すると、父は怒るどころか、迎えに出て歓迎し、歓迎の祝宴まで開いてくれた。ここが神様の愛である。

大切なものを失うこと、また、大切なものを捨てなければならないことは悲しく辛いことである。しかし、放蕩息子が、父から歓迎された様に、失って、神様の元に立ち帰る時、神様から祝福と恵みを頂く時でもある。

使徒行伝2章の聖霊降臨の出来事を体験した人々は、まさに、全てを打ち砕かれた人々でした。主イエスを信じて、全てを捨てて従った人々でした。漁師であった弟子たちは、網を捨て、船を捨て、家族を捨てて従った。その主イエスがこともあろうに、罪人の中の罪人として十字架にかけられた。目の前が真っ暗になったことでしょう。その絶望が、主イエスの復活によって希望に変えられた。しかし、再び、主イエスの昇天という出来事によって、彼らは不安の暗闇に取り残された。

弟子たちは喜びに溢れて集まっていたのではない。語る言葉も失い、怖れと不安と絶望の中で、親からはぐれた動物の子供たちのように、震えるように、寄り添っていた。集まっていることだけが唯一の慰めであった。その心は、「神様、見捨てないでください。離れないでください。助けてください。」と祈るだけであり、彼らのエゴの働きが止まっていた。その時、一人一人の上に、神様が働いてくださり、神様の霊が吹き込まれた。人間の入っていないぬいぐるみに人が入り動き出したように、主イエスの弟子たちは動き始め、語り出した。それが神様の霊の働きである。

人が生きるとは、私たちの思い通りに生きることではない。神様を心に迎え入れて、神様に語っていただくことであり、人間の価値である。

見えない、机の引き出しの中を整理整頓している人の机の上も整理されている。引き出しの中が綺麗で、机の上が汚いという人はいない。反対に、机の上が整理されているが、引き出しの中が乱雑な人もいない。私たちの見えない心の信仰の中味は家族にはまる見えである。信仰は、神様の前に「祈る姿」で見えて来る。聖書の御言葉がその口から溢れて見えて来る。子供を叱る言葉ではなく、ごめんねと詫びる言葉で見えて来る。人を悲しめる態度ではなく、人に希望を与える態度で見えてくる。

また、使徒言行録のように、聖霊の賜物は民族や言語を越えて、人と人が理解できるように導く力でもある。それは、「私」と「人」との理解ではない。夫婦の間を、家族の間を隣人との間を取り持ってくださる力が聖霊である。人間関係に苦しむ時、静まって、神様の和解の労を取ってくださるように祈ろう。人を正すことは信仰者のするべき姿ではない。神様を人と人の間に、神様を、聖霊をお迎えすることが信仰者の姿である。

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