2012年4月8日の説教要旨

「弟子たちへの顕現」

ヨハネによる福音書 20章1節〜23節

先週の聖金曜日の礼拝では、マルコ福音書の14〜15章から、主イエス・キリストが逮捕され、十字架に付けられ、墓に葬られた出来事について学びました。12弟子たちも、多くの主イエスを信じていた弟子たちも、また、ユダヤ教の大祭司や律法学者も、長老たちも、また、兵士たちも誰一人、主イエスの死の意味を理解していなかったことを学びました。その無理解は今日も変わらないとの怖れを失ってはいけないのです。

十字架上の主イエスの最後まで見続けた百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言った(マルコ15:39)。人間が、物事の正しさに気づくのはいつも、物事が終わった後です。

主イエスが十字架を予告した時も、ペトロは「たとえ、みんなが躓いても、私はつまづきません」、「たとえ、御一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と堅く誓ったペトロは、主イエスが逮捕されますと、3度も知らないと主イエスを呪うように言いました。

現在人は、生き延びることばかり考えています。テレビのコマーシャルも、そのことばかりです。生き延びることばかり考えていますと本当は、生きる意味を見い出せません。例外なく、誰もが迎える、自分の死について真剣に考えなければ、本当は、生きる意味を見い出すことが出来ません。私たちが必ず死を迎えます。その死にどのような意味があるのか、価値があるのか。難しい問題です。兎に角、老後のために蓄えておこうが、平均的な思いでしょう。

生きることの意味を、価値を見出す唯一の道は、主イエスの十字架の死と復活を見つめることです。罪人と言われた人々の側に立って生きた主イエス。ユダヤ社会の人々が、汚れていると近づくことも嫌っていた人々と食事を共になさった主イエス。その主イエスに大きな期待をした人々にとって、主イエスの十字架の死は敗北であった。ユダヤの指導者にとって、自分たちを重んじない主イエスを十字架につけて殺したことは勝利であった。

だが、それが最終的な結論ではなかった。殺し、洞窟に葬り、大きな石で封印しても、天地の創造者にとって、それらは、無意味な、無きに等しいものであった。

主イエスも、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐るべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカ12:4〜5)と教えています。

主イエスが死んで、葬られたから、全ては終わった、と弟子たちは逃げた。しかし、逃げない数名の女性がいた。まだ、彼女らも、復活への期待をもって墓へ行ったのではない。無駄であっても、主イエスの側に居たかった。墓に行ってみると石が取りのけられ、主イエスの遺体はなかった。復活したとは思わなかった。誰かが主イエスの遺体を取り去ったと思った。主イエスより強い、権威のある誰かが、主イエスを取り去ったと思った。天地の創造者である神様の支配を信じていなかった。

彼らは、主イエスの復活の予告を何度聞いたことでしょう。しかし、全く、復活を信じていなかった。

信仰の理解には、「負けるが勝ち」というような逆の理解が必要です。死んだ者は敗北者で、生きている者が勝利者との理解では、主イエスの十字架と復活を正しく理解できない。

マグダラのアリアたちにとって、泣く以外に、今起こっている事実を受け止めるすべがなかった。彼女らの知恵と経験から考えて、復活の出来事は想定外であった。理解しようと考えに考えたマリアたちには、泣くしか方法はなかった。泣き崩れるマリアに復活の主が「マリア」と呼びかけて下さった。復活の主イエスがマリアに「マリア」と呼びかけられた。信仰は、考えることではない、ひらめくことでもない。信仰は、神様から呼びかけられることです。19節でも、「イエスが真ん中に立たれた。真ん中に主イエスを迎え入れた。

御言葉と共に生きて、全てを失っても、私たちには、神様の祝福の「復活」がある。ただ長く生きることのみを考えないで、神様に祝福される道を、聖霊の導きを祈りながら生きて行きましょう。その道は敗北であっても、復活、主から祝福を得る道なのでする。聖霊を求め、主御自身が自らを私たちに顕現して下さるように祈りつつ歩みましょう。

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