2010年4月25日の説教要旨

「神様を賛美する」

使徒言行録 3章

ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って行った。キリスト教では時と場所を定めて何かをすることを大切にしてきた。それは、使徒言行録1章と2章でも教えられる。主イエスの教会の最初は、共に集い、心を一つにして熱心に祈ることから出発している。共に集い共に祈ることが教会の立ち帰る原点である。共に集っているだろうか?共に祈っているだろうか? 

時を定めることの大切さを強調されると、遅刻すると肩身が狭いから、休もうと怠け心負けてしまう。教会は赦されるべきでない者が赦された者の集いですから、いつも赦しがなければならない。礼拝に遅れないことにこしたことはない。しかし、現実には、せめて、説教に間に合えばと頑張っている人もいて良い。誤解を恐れずに言えば、「祝祷」に間に合えばいいと思う人がいても良い。キリスト教会にとって大切なことは、主イエスを通して、自分は赦されて今があることを忘れないことである。そして、与えられた赦しを共に感謝して集う交わりが教会である。

さて、ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って来た。「美しの門」の側に、生まれながらの足の不自由な人が施しを乞うていた。この人はペトロたちを見て、施しを求めた。すると、ペトロはヨハネと一緒に彼を見て、「わたしたちを見なさい」と言った。ペトロたちは傲慢になっているのでしょうか。そうではありません。ペトロたちが言いたいのは、「主イエス・キリストによって、全てを赦され、喜びに満ち溢れ、感謝に溢れて歩んでいる私たちを見なさい」と言っているのである。

主イエスを見捨て、裏切ったペトロたちの心には、深い傷があり、痛みがあり、後悔があった。復活の主イエスは責めるどころが、祝福の食卓に招かれた。ペトロたちの心は赦された喜びと感謝に満たされていた。ペトロたちは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、右手を取って立ち上がらせ、神殿の境内に連れて入った。それは神様の恵みの座に近づくことであり、赦された者の大きな喜びであった。主イエス・キリストの憐れみによって、喜びと希望に満ちているこの私たちを見なさい。あなたも、神様から祝福を、恵みを受けなさいと勧めている。そして、右手を取って、彼を立ち上がらせた。人が御言葉に従うためには、助け手が必要である。温かい人の支え、励まし、手を取って立ちあがらせてくれる友が必要である。執り成しの祈りと具体的な優しい支え合う心が必要である。

私たちはいつも、自分には何か足りないものが一つあるような気持ちで生きているのではないでしょうか。時間が足りない、収入が足りない、能力が足りない、わたしの心を理解してくれる人が足りない、助けてくれる人が足りない等、もやもやした不満を持って生きている。足りないことも貧しいことも、神様からのプレゼント、賜物であることを信仰者は忘れてはならない。主イエスの教会は、ペトロやヨハネたちと同じように、主イエス・キリストへの感謝と讃美で満ち溢れる。そして、人々を絶望から希望へと立ち上らせる。教会が主イエスの名によって、集まらなくなると、教会から賛美が消え、不平、不満、他人への批判の合唱となる。主イエスの賛美に満ちた教会形成を始めましょう。

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