2012年9月23日の説教要旨

「キリストの栄光のために」

コリントの信徒への手紙二 8章1節〜24節

マケドニア州の諸教会(ピリピ、テサロニケ、ペレヤなど)に与えられている神様の恵みについてパウロは語っている。それは、迫害の中での出来事である。2節に書いてありますように、彼らは苦しみによる激しい試練を受け、極度の貧しさの中で、満ち満ちた喜びがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということである。

テサロニケの手紙にも、「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています」(第一テサロニケ2:15〜16)と書かれている。

マケドニア州の諸教会は他の教会や他の人々を援助出来る余裕は全くなかった。むしろ、助けを求めたいような迫害を受けていた。にもかかわらず、エルサレム教会の経済的な困難を聞いた時、マケドニア州の諸教会は、「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(3〜4)。

極度の貧しさの中の教会がなぜ、他教会を助けることができたのでしょう。「わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(5)。彼らはエルサレム教会のために人間的な同情で助けたいと思ったのではなかった。彼らの信仰は、「まず主に」であった。神様が第一であった。第二も、「神の御心にそう」ことであった。自分たちの現実の貧しさに心を奪われること以上に、彼らの関心の第一が「まず主のため」であり、第二も、「神の御心にそう」ように生きたいとの信仰を優先させていたから、貧しさの中でも他教会を助けることが出来た。彼らの信仰は、自分たちの現実の貧しさに心を支配されることなく、関心は神の僕に徹することであった。

マタイ20:1〜16の「ぶどう園の労働者のたとえ」のように、私たちならば、先ず、夜明けから12時間働いた人から賃金を払い、1時間しか働かない人には最後に少しの賃金を払う。それが当然である。しかし、主イエスは、先ず、1時間しか働かない人から先ず賃金を払います。それも、12時間働いた人と同額の賃金です。このたとえを1つ覚えておくだけで、主イエスと共なる信仰の道を歩めるでしょう。

どこの教会へ行っても、聞かされる言葉は、「私たちはもう年金生活なので」と言う言葉である。それは事実である。しかしそれは、先ず私の生活、先ず私の願いが優先となっていないでしょうか。マケドニア州の諸教会は、自分のことを後まわしにして、先ず主のために、先ず神様の御心を優先させた。この彼らの信仰を私たちの頭の隅に。聖書の知識も豊かであった。あらゆることに熱心であった。その言葉や知恵の信仰を、神様のために、他の人々のために具体化に用いなさい。それを慈善の業として実を結びなさいと奨めている。

信仰がその場、その場の言葉の遊びではなく、主イエス・キリストの十字架と復活の愛の純

粋さから流れ出ていることを見せてほしいとパウロは言う(8)。信仰は言葉ではなく、生活です。

主イエスは父なる神様のもとを離れて、この世に御降誕されたことは、天国の富を捨てて、地上の私たちの貧しい生活に入られたことを意味する。この主イエスの愛に触れたマケドニア州の教会は、迫害で極度の貧しさの中にあっても、貧しくなられた主イエスへの愛によって感謝、希望に満たされていた。貧しくなられた主イエスの愛の光に照らされて、その信仰や心は貧しくならず、主イエス・キリストの恵みで満ち溢れていた。

マルコ12:41以下に「やもめの献金」の記事があります。やもめは自分のためには何も残さず、神様に捧げた。この信仰の姿を真似出来なくても、忘れないようにしたい。

出エジプト16:1以下に「マナ」の記事がある。神様を第一とする者には必要なものは必ず与えられる。また、箴言30:8〜9「むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおどれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」

キリストに栄光を帰する生活には、欠けるものはない。なぜなら、神様は、神様のために失ったもの以上の恵みを備えていて下さるのです。キリストの栄光のために生きる決断をしましょう。

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