2010年8月15日の説教要旨

「お前たちは何者だ」

使徒言行録 19章

この章はエフェソ伝道の記録である。洗礼が神様の聖霊をいただくことであることが印象的です。私たちが主イエスの教会にいることも、実は聖霊の導きなのです。聖霊に導かれての日々であることを信じて歩みましょう。聖霊を受けたエフェソの教会の人々は、「自分たちの悪行をはっきり告白した」(8)とある。他人のことばかり話題にすることは主イエスの教会の姿ではない。そのような人を主イエスは、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのになぜ、自分の目の中の丸太にきづかないのか」(マタイ7:1以下)と批判した。聖霊に導かれるとは自分の弱さ、失敗、いい加減さ、罪を認めて告白できる力である。それができるように導いてくださるのが聖霊の力です。

 聖書の信仰は、神様のみを神様とし、神らしきものを神様としない。人が呪文よって病気が治るように信じさせことは、人間を信じる偶像崇拝である。聖書では、人間が主役で、神様を人間に従う脇役にすることを罪という。正しい人間の生き方は、神様が私の主人であって、私が主に従う僕(しもべ)として生きることである。私たちは占いに頼っていないと安心しがちですが、私たちの祈りが罪深いことも多い。私たちの祈りにおいて、私が「祈る人」であり、神様が「聞いて従う人」になっていることが少なくありません。

私たちの祈りはいつも、身勝手な、厚かましい祈りばかりですが、それでも良い。「病気が癒されますように」「孫が大学に合格しますように」と祈れば良い。そこで祈りが終わってはならない。主イエスは十字架を前に祈られたお祈りを忘れてはならない。「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ福音書14:36)と祈られた。私たちの祈りの最後に、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」とお委ねすることを忘れてはならない。そして、祈った結果が、願い通りであっても、願いに反しても、神様の御計画、御心と受け入れることが信仰である。また、サムエルの祈りのように、聖書を開いて、「主よ、お話ください。僕は聞いております」(サムエル記上3:9)との祈りの姿勢が大切である。信仰に生きるとは、神様が命令される方、私は聞いて従う者として生きることである。

今朝の19:11以下のように、パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てると、病気が癒されるという奇跡が起こりました。祭司長スケワの七人の息子たちも、奇跡の力を欲して、パウロの真似事をしたら、悪霊たちは、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」(15)と襲いかかった。奇跡が起こって欲しいと願うことは悪いことではない。しかし、物事が私たちの思い通りになること以上に大切なことがある。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」との祈りです。私の願いではなく、神様に祝福される御心の実現です。私たちの人生の最後を握っておられるのは、地位でも富でも、力でもない。私たちの最後を握っておられる方は、創造者なる神様である。最後は神様の前に立つ、「終末の時」があることを確信し、奇跡を求める生き方ではなく、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と祈れる者となりましょう。

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