2010年8月8日の説教要旨

「神の福音を語る」

使徒言行録 18章

アテネ伝道を失敗しパウロは逃げるようにコリントへ来た。その時のパウロの気持ちを、「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」 (第1コリント2:3) と書いている。

福音とは、神様はあなたを愛しておられますよ、その証拠が神様の独り子主イエスの誕生、十字架、復活ですよ、主イエスの命を捨ててでも、神様はあなたを赦したいと思っておられるのですよ、救いたい、祝福したいと願っていて下さるのですよ」と神様の赦しの愛を語ることである。

しかし、福音伝道は、本としての聖書を渡せばよいというものではない。キリスト教信仰は、物のように人から人へ、手渡されるものではない。キリスト教信仰はキリスト者の心に入り、その人の人格と共に伝えられる。人は、キリスト教の真理に失望するのではなく、それを伝える私たちの言動、生き方に失望する。聖書そのものが何か一つの役割を果たすのではない。聖書が在るだけでは意味がない。私たちが聖書を手にとって、開いて、読んで、そして、この御言葉を目標にして、生きてみようと聖書の御言葉を受け入れ、あなたの心を支配させることである。

御言葉を心に宿しても、なお2つの信仰の道がある。1つは、ファリサイ派の人々のように、御言葉を武器にして人を批判したり、攻撃する信仰の道である。武士道と結びついついた日本の教会も、どちらかというと、その傾向がある。信仰が他人に対する優越感、自慢、うぬぼれになっている信仰もある。ガラス玉である自分を着飾って、他人から、あなたは、ガラス玉ではない、真珠ですと思われたい誘惑を日本のプロテスタント教会は持ち続けている。もう1つは、使徒言行録で学んでいるように、パウロやペトロのように、自分の信仰さえ捨てて、主イエスの御言葉を心に受け入れ、主イエスに聴従する信仰である。自動車の運転で言えば、パウロやペトロは自分で運転することを止め、運転を主イエスにお任せした。御言葉に謙遜に聴従する信仰の道である。私の思い、願い、希望を捨て、神様に、御言葉に従う道である。

コリントの人々は、パウロに「反抗し、口汚くののしった」(18:6)。そのような中でも、神様は信仰の友を備えておられる。ローマから追放され逃げてきたアキラとプリスキラ夫婦であり、ユダヤ教の会堂の隣のティティオ・ユストであった。そこに、主イエスの教会が建った。絶望のような中でも、私たちの人生を背後で神様が支え導き働いていてくださる。

 

コリント伝道の不安の中で、パウロは祈り続けた。神様が幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9-10)と励ました。民族や国や宗教を超えて、聖書が語るように、「私も赦されている、あなたも赦されている、みんな赦されている」との福音を、自分に、家族に、友、隣人に恐れず語り続けよう。

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