2011年4月24日の説教要旨

「主の復活」

イザヤ書54:4〜10、ルカ福音書24:1〜12

イザヤ書には主イエスの預言といわれている、「主の僕」のタイトルがつけられたところがある。イザヤ書42:1を見ますと、主の僕は、「見よ、私の僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導きだす」と書かれている。神様に支えられ、選ばれ、霊を注がれ、裁きを導き出す者ですから、「主の僕」はヒーローである。ところが。主の僕は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(42:2)と書かれている。ヒーローのような華やかさも、偉大さもない。また、イザヤ書50:6を見ますと、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬(ほお)をまかせた.顔を隠さずに、嘲(あさけ)りと唾を受けた」と書かれている。実に弱々しい主の僕である。また、イザヤ書53:2b〜3では、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていた」と書かれている。人から笑われ、誰からも評価されない、見向きもされない、実に惨めな「主の僕」である。

しかし、今朝のイザヤ書54:4以下では、「恐れるな、もはや恥をうけることはない、もはや辱められることはない。あなたの造り主があなたの夫となられる。」と約束されている。

私たちの人生でも、人からも神様からも見捨てられたとしか思えない一瞬がある。東日本の被災者の多くはそのように思っておられるかも知れない。しかし、聖書に目を向ければ、)「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」(54:7〜8)と神様は約束していて下さる。また、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」(10)と神様の愛の決意が語られている。それが、十字架と復活の意味でもある。

偉い人の言葉、立派な人の言葉、有名な人の言葉、権力ある人の言葉は、信仰はがなくても聞くことが出来る。しかし、敗北者、失敗者、惨めな姿の人、弱い人の言葉に耳を傾けることは誰もが出来ることではない。信仰者は、敗北者のような主の僕の声に耳を傾ける。神様に聞くということは、最も貧しい人々に聞くでもある。

主イエスの復活は、何が神様に受け入れられ、祝福されるかを教えている。主イエスは生涯をとおして、人に仕えられる生き方を拒否された。逆に、仕える生き方を肯定された。私たちは、人に仕えられることを喜び、仕えられることを歓迎する私たちの生き方を否定する必要がある。仕えられることに人生の価値を見出していたファリサイ派の人々や律法学者や祭司長や長老たちは、自分たちの生き方を変えることをせず、主イエスを拒否し十字架へ追いやった。主イエスは、ルカ福音書17:9以下の「ファリサイ派の人と徴税人の祈りで、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と心の底から懺悔した徴税人の生き方を祝福された。

出来る、知っていると人間的な誇りを捨てることが出来ない人とって、主イエスの復活は無関係と思うでしょう。敗北、絶望、不安、恐れを痛感し、また、何も知らない自分、何も出来ない自分に落ち込んでいく自分を理解できる人にとって、主イエスの復活は大きな希望となる。どうしようもない自分の弱さを告白する時、復活の主が共にいて支えて下さる。

人間的な敗北の死も、それが最後ではない。主イエスの十字架上での死を見て、大祭司やファリサイ派の人々や律法学者たちが勝利を確信しても、それが最後ではない。私たちの最後を握っておられるのは神様であり、死者を復活させる方である。

人間的な思いでは、人は死に、墓に葬られ、大きな石で封印されたならば、全ては終わりである。そこであきらめることは誰にでも出来る。しかし、マグダラのマリアたちは、無駄であると分かっていたが、なお、主イエスに近づいて行った。すると、マリアたちが予想もしていない事が起こっていた。「石が墓のわきに転がしてあり、主イエスの遺体は見当たらなかった。彼女たちは途方に暮れた。婦人たちの側に「輝く衣を来た二人の人が現われた。婦人たちは恐れて地に顔を伏せると、2人は、「生きていられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と諭された。それが信仰である。復活の主に出会うということは、現実がいかに絶望的であっても、それが最後ではない事を知り抜くことである。人間の判断が最終的なものではなく、最後は神様の御手に握られていることを忘れてはならない。私たちの出来る最後の決断は御言葉を受け入れることである。

自分のいい加減さ、ちゃらんぽらんさ、醜さ,失敗、敗北などの闇を知った者が神様の光に気づく。敗北を知ったものが、主イエスの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ福音書11:25)との教えに心から感謝を持ってアーメンと言える。

死は恐ろしい。しかし、生も死もご支配されている復活の主が、昨日も今日も明日も、御言葉をもって、私たちに生きよと語りかけていて下さる。闇に目をつむる者は復活の主に御会いすることが出来ない。自分を大きく、強く、立派に見せている間は復活の主とは無縁な歩みと言える。自分の本心を見つめ、弱さを認め、途方に暮れた者が、神様が慈しみと憐れみを持って待っていて下さることを信じられることが復活の主につながる歩みである。

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