2010年7月10日の説教要旨

「悪意と善意の狭間で」

使徒言行録 14章

イコニオン、リストラ、デルベでの伝道、また、伝道した土地を訪れ、励まし、長老を任命してアンティオキア教会に帰ってきた伝道の記録である。どの町にも、教会の中にも、パウロたちに賛成する人も反対する人がいた。賛成と反対の間にどちらでもない多くの関わりたくない人がいる。それが普通である。

主イエスには何千人、何万人の味方、支持者がいたように見えるが、最後はマグダラのマリアたち数人の女性しか残らなかった。パウロも最後はテモテだけでした。誰もが、善意を寄せてくれる人と悪意に満ちた人の狭間で生きている。また、一人の人間の中に善意と悪意が混在している。

弱い私たちは、反対する人がいると落ち込んでしまう。パウロとバルナバは悪意に満ちた人々の中に、「長く留まって、勇敢に語りました。」それが出来たのは、主なる神様を頼みとしていたからです。誰もが、悪意と善意の狭間で生きている。闇と光に挟まれて、絶望と希望に挟まれて、悲しみと喜びに挟まれて、不安と安心に挟まれて生きている。それが、誰もが経験する普通の出来事である。反対者がいない社会は悪魔が支配する社会であって、個人の自由と尊厳を重んじる社会ではない。和食を食べようと言えば、洋食と言う人がいたり、中華と言う人がいても良い。それが普通の社会である。多様性を認めることが民主的な社会である。

現実には、反対者がいることは気持ちの良いものではない。だが思い通りに行かない現実があるから、私たちの傲慢さが打ち砕かれ、謙遜にされる。反対を認めないと、幼児虐待やいじめも起こる。

パウロもバルナバも賛成してくれる人、善意を寄せてくれる人の力を頼みとして、反対者と戦ったのではない。「主を頼みとして勇敢に語った」(3)。これが信仰者のあるべき姿である。

私が間違っているのかもしれないとの不安は決して不信仰ではなく、むしろ、が信仰的と言える。不安、恐れは辛いけれども、私たちを信仰に導く、即ち、神様の前に祈る者に、神様の導きを求める者に変えられる。私たちの願い通りに、物事が運ばれると、私たちの心から「祈り」が消えていく。祈りを必要としない生活は、実は神様から遊離した生活である。子供や孫に欲しがるものを何でも買い与えていたら、悪魔に育てているようなものである。欲しくても手に入らないものがある。行きたくても行けないところがあることを知ることは人間が人間である基本と言える。

パウロたちは生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことのない男の人に出会った。パウロは、彼の中に癒されるにふさわしい信仰を見た。その信仰とは、パウロの説教を一語も聞き逃さないで真剣に耳を傾けていた姿勢である。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10:17)。聞くことが、信仰であり、また、キリスト者の祈りでもある。サムエルは、「主よ、お話ください。僕は聞いております」(サムエル記3:9)と祈っている。狭間で生きる者に必要なことは2つである。祈りと主なる神様にお委ねすることである。

 聖書の教えは、悪人が悪人でなく、善人が善人ではない。人間の善は、悪の中の善でしかない。マザー・テレサが善人で、ヒトラーが悪人でありことは人間的な常識ですが、神様の前では、どちらも、十字架の血によって、贖われ、赦されなければならない存在である。ルカ18:9以下の徴税人の祈りのように、「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈らなければならない自分に気付くことが人間のたどり着く最高の知恵である。

このページのトップへ戻る