2010年10月10日の説教要旨

「信仰を生活の中へ」

使徒言行録 26章

パウロは一番厳格なファリサイ派の一員であり、夜も昼も熱心に神様に仕えてきた。それは誰もが認めるほどであった。しかし、熱心であれば良いわけではない。パウロの熱心さは主イエスから、「なぜ、わたしを迫害するのか」(14)と責められる間違った熱心さであった。私たちが正しいと確信できることも、神様から見れば悪である、罪である危険性を忘れてはならない。神様の助け、導きを真剣に求める祈りと御言葉への忠実な聴従さが求められている。また、私たちの生き方が神様に祝福されるために必要なことは、自分が考える正しい道を生きることではない。人に褒められる道を生きることでもない。最も小さい人を、貧しい人を、敵を受け入れる生き方である。そして、そのように生きることができない自分に気付き、神様に赦し、助け、導きを祈り求める道へ進むことが信仰である。

パウロは神様の祝福はユダヤ人のみに与えられるものであって、外国人(異邦人)は祝福の対象外と信じていた。ところが、その異邦人を祝福するために神様はパウロを選ばれた。それはパウロの使命であると同時に、私たち、キリスト者の使命でもある。

キリスト者を迫害してきたパウロがキリスト者になった。そのことで、仲間であったユダヤ人から迫害された。「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)とのパウロの言葉は自分自身への自戒の言葉であったのでしょう。誰かを裁いたり、批判したり、締め出したり、見下したり、悲しませることは、主イエスへの迫害と同じである。私たちの使命は呪いではなく祝福を、批判ではなく希望を与えることである。

主イエスは最も大切な御用に迫害者パウロを用いられた。パウロは主イエスの迫害者であった。パウロの選びは人間的には考えられないことである。これこそ、迫害する者を祝福する神様の驚くべき愛である。

パウロの迫害者への丁寧さ、親切さ、暖かさは、「私」を主語で生きている者からは生まれてこない。自分中心にして生きる私たちの中にあるのは、人への不満、不信、裁き、見下し、締め出しである。パウロは自分が主語で、自分の知恵や知識に従っていた時は、キリスト者の迫害者であった。しかし、ダマスコ途上、神様に召しだされキリスト者とされたパウロの主語は、常に「神様」であった。神様の愛は、ローマ5:6以下でパウロが語っているように、キリストは不信心者のために死んでくださった。罪人であった時、キリストは私たちのために死んでくださった。神様の敵であった時も、主イエスの死によって和解させてくださり、キリストの命によって救われた。その喜びから生まれた暖かさ、親切がキリスト者の心である。そして、キリスト者の使命は17節以下に書かれていますように、全ての人に目を開かせ、闇から光へ、サタンの支配から神様に立ち帰らせ、信仰によって罪の赦しを得、聖なる者となり、恵みの欠け前にあずかるように、人々を導くことである。

 

信仰は個人と神様の関係である。密室でも祈りがなければ、その信仰は無に等しい。同時に、私たちの信仰は人との関係の中で生きて働かなければならない。美しいバラのように、自分はキリスト者であることを誇っていても、とげがあるならば、人は心から私たちを受け入れないし、主イエスに近づく人々の妨げになってしまう。人々をキリストに近づける優しい暖かいキリストの香りを放ちましょう。

私たちが教会に招かれ、救いの恵にあずかっているのは、主イエスを通して示された神様の愛のお招きであることをいつも想起し、感謝と喜びを持って日常生活を生き、家族の中で、学校や職場で、隣人との交わりの中で、赦されている喜びと感謝の香りを放ちましょう。人との交わりの中で、主イエスの愛を証ししましょう。それが信仰者の基本的な生活である。

このページのトップへ戻る