2012年7月15日の説教要旨

「復活の希望」

コリントの信徒への手紙一 15章1節〜34節

人生の見方には二つあります。人生を「死」で終わりと考えるか、それとも、終わりではないと考えるかです。両者の生き方は大きく変わる。死で終わりだと考える生き方は、神様不在です。何が善で何が悪であるかを考える必要はない。その生き方の規準は善悪ではなく、好き嫌いが中心です。自分一代の事しか考えず、人のこと、次世代の人のことを考える必要が無い生活になってしまう。

パウロも、「もし、死者が復活しないとしたら、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか、ということになります」(32)と語っています。自分さえ、自分たちさえ楽しく生き、満足に生きることが出来ればよい生活になります。それでは、動物の親が自分の命を捨ててまで子供を護り生かす生き方にも劣る生き方となる。

パウロは自分の歩みを振り返って、わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です(9)。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(10)と語っている。主イエスの十字架と復活がなければ、パウロの生涯はキリスト者の迫害者で終わった。その迫害者を赦し、新しく生まれさせ、主イエスの忠実な僕とされた。それはパウロ自身が自分で出来たことではなく、「わたしと共にある神の恵みなのです」と証ししている。迫害者をも神の僕につくりかえて下さる力を、主イエスの十字架と復活が証明していて下さる。

キリスト教信仰者とは、死を人生の終わりではなく、神様の御元へ帰り、神様の前に立つときのあることを信じている者のことです。それを、終末信仰と言います。また、キリスト教信仰は復活信仰ともいわれます。

パウロも、「 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(3〜5)と語っています。主イエス・キリストの復活を信じ、私たちも主イエスの復活に与かることが出来るのです。

人は神様などいない。死ねばすべてが終わりであると信じて生きることもできる。しかし、私たちが好きなことを好きなだけして、満足して人生が終わるわけではない。「死」ですべてが終わるわけではない。復活させられて、神様の前に立たされる。その時に、良い生活をしてきた人が救われ、悪い生活をしてきた人が裁かれるのではない。

聖書を通して教えられていることは、あの「放蕩息子」のたとえのように、「放蕩」に身をゆだねて好き勝手に生きた人であっても、「我に返って」、父のもとに帰って、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(ルカ15:11以下)と悔い改めて、懺悔の祈りをするすべての者を赦して下さるのです。主イエスの復活は、私たちの人生に失敗はないことを教えている。

復活信仰、終末信仰に立って、人は初めて、人間はいかに生きるべきかを悩み始める。また、自分の人生に意味と価値を見出すことが出来る。私たち、キリスト者は、神の国からこの日本に派遣されて、神様の御心の実現のために存在している。そして、いつか、神の国に帰って、神様の前で、日本で何をしてきたのか報告しなければならない時があることを自覚している。

マタイ5:13に、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と教えています。キリスト者が神の国から使命を与えられて派遣されている自覚を失ってはいけない。復活信仰、終末信仰を忘れたら、その信仰は全く無意味なものとなる。

ところが、コリント教会の中に、「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12)と、パウロが驚くような現実、教会の中に復活信仰を否定する人がいた。復活信仰を否定すると、この世の快楽しか残りません。生活の中で、神の国へ帰る時を思い巡らすことが無くなる。この世の自分のことで一杯になり、神様からの使命や神様の御心の実現に悩むことが無くなる。

キリスト教信仰は、2000年昔の主イエスについて知ることではない。それだけでは、生きたキリスト教信仰にはならない。今も生きて働かれている主イエスを想起できなければ、石や木を神としている偶像信仰と変わらない。「さあ、今日も行こう、今日も働こう」と、私たちの前を歩く主イエスを想起できる信仰者でありたいと思う。

パウロが、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と告白している。神様は高慢になっている人よりも、自分は最も小さい者、最も価値のない者であることを深く自覚している人を、パウロのように用いられる。だから、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らざるを得ない。パウロは復活信仰によって、全く新しい人に変えられた。新生です。迫害者から伝道者に変えられた。

20節以下のように、明るい世界が、「一人の人」によって、闇になることがあるし、逆に暗い世界が「一人の人」によって明るい希望に変えられることがある。良いことも悪いことも一人から始まる。一人が心から復活の信仰に立ち上がるならば、教会全体が希望に包まれる。

そのために必要なことは何か、「わたしは日々死んでいます」(31)とのパウロの言葉です。自分に死に、復活の主に従う生き方です。就任以来、島之内教会の5年間の祈りの課題「50人礼拝の実現」も一人一人が「自分に死に、主イエスと共に生きる」決心、覚悟をしたら、来週から実現することではないでしょうか。生きて働きたもう復活の主を見上げて、死と復活の新しい一歩を踏み出しましょう。

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