2012年4月1日の説教要旨

「十字架への道」

ヨハネ福音書 18章1節〜40節

教会暦では、イースターの前の主日を「棕櫚の主日」と言います。マルコ11:7以下で、「 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と歓喜の声で迎え入れました。救い給え、救いたまえ、栄光あれ、栄光あれ、と戦いでの勝利者の王を迎えるように迎えました。

この群衆の歓喜、また私たちの喜びに対して、主イエスご自身は、マルコ14:33〜36で「イエスはひどく恐れてもだえ始め、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と語り、父なる神様には、「地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈っておられます。

歓喜の声をあげる群衆の心と死を覚悟している主イエスの心には大きな大きな開きがあります。全く逆を向いています。それは、私たちの日常生活で繰り返している姿でもあります。

ゲッセマネで、死ぬばかりの悲しみ中で祈っておられる主イエスの近くで、弟子たちは眠っていた。主イエスは死ぬこと以上に悲しまれたのは、弟子たちの無理解であったでしょう。都合の良い時は主の弟子であり、都合が悪くなれば主の弟子であることを拒否する、この恐ろしさは、私たち誰もが持っている弱さです。

ピラトは主イエスに何の罪も見い出せないので、釈放しようとしても、大祭司たちは許しません。そして、過ぎ越しの祭りに犯罪者の一人を赦す習慣があり、ピラトは、群衆が当然主イエスの釈放を願うと思っていたのに、群衆の願いはバラバを赦すことであり。人々は大声でイエスを十字架へと叫び続けた。

歓喜の声で主イエスを勝利者、王として、エルサレムへ迎え入れた、同じ人々が主イエスを十字架への叫ぶ。全ての人間の内に潜む恐ろしい心である。

我が子を虐待して殺してしまうような事件が日常茶飯事になっています。彼らの中にも、昨日は天使のように我が子に接していたかもしれない、しかし、泣きやまなという小さなことで、人間は愛する者を殺す程の悪魔性を内に持っているのです。

主イエスは自分のこの世の最後の時を前にして、仲間を集めることはしていません。むしろ、(8)−(9)「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(8−9)と要求します。信仰の本当の決断は、一人一人が神の前でしなければならない。ペトロは主イエスが共におられるので、強気になれたのでしょう。大祭司の手下のマルコスの右の耳を切り落とします。仲間がおれば、人は間違った正義感を燃やすことが多々あります。しかし、ペトロも主イエスが連行されると、主イエスの弟子の一人ではと問われますと「違う」と答えた。これがシモンの本質です。信仰は一人で、孤独の中で、誰の助けもない所で、命をかけて守る大切なものは何かと問われるのです。ペトロには主イエスではなかった。主イエスを信じる何千人の人々の中で、主イエスはキリストであると告白することは、誰にでも出来る。信仰が無くても出来る。主イエスが逮捕され、一人残されたペトロ、主イエスとの関係を三度も否定した(17、25、27)。

私たちの信仰も、一人の時に何をしているかです。教会で祈ることは私たちの本当の信仰の姿ではない。一人の時に、「神さま、主イエスよ・・」と祈ることが出来る姿が信仰です。誰も見ていない、一人の生活の中に、賛美をし、聖書に聴き、祈る時が持てることが信仰の初歩です。

信仰は一人でする決断でありますが、一人の決断は、ペトロのように、間違った言動をとることも多くあります。そこが人間の複雑なところです。一人で決断しなければならないと時でも、思ってした決断が違っていたりします。

また、ピラトもそうです。ピラトは2000年後の今も全世界のキリスト者によって、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに、苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」と語り伝えられている。ピラトにはとっても良い奥さんがいた。マタイ27:19「ピラトが裁判の席についているとき、妻から伝言があった。『あの正しい人に、関係しないでください。』」総督として自分が決断しなければならないと思ったのかもしれません。奥さんの忠告に耳を貸さなかったかから、今も主イエスを苦しめに会わせ、十字架につけた人と言われている。

信仰は、誰かの後ろについて歩くような信仰は、信仰は正しいのか、間違っているのか分からない。信仰は一人ぼっちでの決断を必要とする。しかし、一人になると、ペトロにように、主イエスを拒否してしまう危険性がある。ピラトが奥さんの伝言を受け入れていたら、使徒信条に名前が残らなかったかもしれない。

大勢の中の信仰から、一人での信仰の決断は信仰の成長です。同時に、一人ぽっちの信仰の弱さを忘れてはならない。ペトロは主イエスの側にいて、たとえ死ぬのも一緒と言っていたのに、主イエスを知らないと拒否しました。私たちも同じ失敗をする危険性をいつも持っている。

大切なことは、主イエスのように、神様の御心を求める祈りある生活です。祈りの友の存在です。私たちの知恵と経験に支配させないで、主イエス・キリストとインマヌエルな生き方を祈り求める生活です。十字架を背負う覚悟です。ローマ書3:10以下の「正しい者はいない。一人もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」この神様の私たちへの嘆きを忘れてはならない。仲間の中の信仰から、一人での決断の信仰へ、一人でも信仰はペトロのように、主イエスを拒否する信仰に変わり危険性があるので、「主イエスを信じる者が間違った判断を下さないように。インマヌエルなる十字架の道を探して歩みましょう。それは聖書に聴き、祈りある生活を通して、聖霊に導かれる生活です。

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