2012年8月12日の説教要旨

「キリストの勝利の行進に連なる」

コリントの信徒への手紙二 2章1節〜17節

私たちが使う、「悲しい」、「厳しい」とかの表現は、決して客観的なものではない。私たちの日常生活の中で考えますと、同じ映画を見ても、ある人は悲しいと思うし、ある人はお涙だ頂戴は嫌だと言う。厳しく言っても、その厳しさを受けとめて感謝する人もいる。優しく言っても、怒られた、悲しいと受け止める人もいる。ただ、人から優しい人と言われたいと思うと、週報の「牧師室から」に書いたように、人はだらけ、たるみ、我がままになり、堕落する。

言葉には矛盾を含んでいる。優しい先生は無責任な先生かもしれない。厳しい先生は、生徒の将来を考えたら、悩みながら、無責任な「優しい先生」を拒否していることもある。愛情をもって、「優しい先生」を拒否し、「厳しい先生」であり続けることは孤独であり、辛い選択であり、祈りを必要とする。

私たちへのパウロのメッセージは、自分の願いや自分の思いを第一とする生活から降りて、神様を第一とする生活に乗り換えましょうとのアナウンスである。自分の願いや自分の思いを捨てて、神様の約束だけを信じて生きることは簡単なことではない。財産や地位や名誉があればあるほど、捨てることは難しい。今までの生き方をストップさせ、財産や地位や名誉を捨てることは悲しい。神様を第一にせよとのパウロの言葉はコリント教会の多くの人を悲しませ、憎ませた。

愛情一杯の言葉も、憎しみ一杯の言葉のように誤解されることは誰もが経験する。その時は弁解することは許されない。耐えるしかない。パウロも、「再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」(1)と語る。

「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」(4)と教えているように、コリント教会への手紙はパウロにとって、誰にも負けないコリント教会への溢れるほどの信仰愛の手紙であった。その愛情が理解されず、コリント教会の人々を悲しませたことは、パウロには心外であった。パウロは心の中にはコリント教会の兄姉への愛が一杯詰まっていた。しかし、人間の無理解、誤解は人間の現実である。まして、神様の人間の間の誤解は、地球と月の距離より大きい。理解不可能である。

だからこそ、神様に導かれることが必要である。毎朝、神様の前にひざまずき、賛美し、御言葉をいただく単純な生活が信仰生活である。御言葉を心の中に迎え入れ、御言葉に支配していただくことが信仰生活である。

人は失敗や敗北や挫折や絶望をいつも味わう。それでも、パウロは、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(14)とパウロは自分の人生を振り返っている。

凱旋行進は勝利者の行進である。しかし、その中に、敗北した敵の見せしめの人々、捕虜になった人、奴隷として連行される人々もいる。神様に選ばれてキリスト者に成った後のパウロの人生は勝利者としての凱旋行進ではなかった。敗北者が捕虜となって連行されるような惨めな行進であった。主イエス・キリストを信じて歩んだ道は苦悩に満ちた奴隷の道であっても、今、振り返れば、キリストの勝利の行進に連ならせて頂いていたんだとパウロは感謝している。

皆さんの人生でも、見下げられ惨めな思いの忍耐の行進であった時もあるでしょう。牧師の生活にも、惨めな時もある。空しくなる時もある。その時に大切なことは自分で判断を下さないで、神様の前に、聖書の御言葉の前に静まり神様の導きを求めることである。十字架の主イエス・キリストが身近に思えるようになるまで、心を空しくしよう。そして、「私は主イエス・キリストの僕である」と自分に言い聞かせながら歩むことが信仰生活である。

パウロは、16節で「死に至らせる香りと、命に至らせる香り」について教えている。私たちの信仰生活にも2つの香りがある。人を死に至らせる香りもあり、人を永遠の命に至らせる香りもある。どこが違うのか。人を見ている信仰と神様(十字架のキリスト)を見ているかの違いの香りである。人に左右されず、十字架の贖い主イエス・キリストを見つめて歩み時、救いの命に至る香りを主ご自身が与えて下さる。「神の言葉を売り物にする」(17)とは、十字架のキリスト、主イエスを誇るのではなく、キリスト者である自分を自慢したり、誇りにすることであり、それは死に至る香りを放つことになる。その死に至る香りは、家族や周りの人々をキリストから遠ざける役割を果たす。家族や友が永遠の命に至らせる香りを放つためには、神様の導き、助けを真剣に祈り始めなければならない。家族のために祈りを忘れて、教会が永遠の命に至らせる香りを放つことはない。

「聖書にこのように書かれています」と御言葉に導かれる信仰と、「わたしはこう思う」と自分の知恵や経験を語る信仰は、月とすっぽんほど違う。その違いが判らないことが今日の教会の現実の姿といえる。苦難、不安、誤解、誹謗、批判を背負いながら、主イエスに結ばれつつ、キリストの勝利の凱旋行進に連なりましょう。

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