2011年1月2日の説教要旨

「全てを神様に委ねる」

ペトロの手紙一 5章1節〜11節

新しい2011年を迎えました。戦中、戦後の混乱期を除くと、これほど、希望の無い、不安な新年はなかったのではないでしょうか。特に今は、老人の不安よりも若者の不安が深刻です。戦争や、戦後の混乱期を体験してきた世代は、春、夏、秋、冬の四季を経験して来ました。しかし、若者、特に高度経済成長期以後の世代が春、夏、秋は経験していますが、冬の厳しさを経験しないで成長して来た。

老人はよく言います。「もう、70歳を過ぎたし、贅沢しなければ、何とか生きていけるから、不安はない」と。団塊の世代の多くも、そう思っている。それは、自分の一生の80年のことだけを考えているからである。

今は就職が決まっても、かつてのように、定年まで安泰というわけではない。地図の無い、未知の旅が数十年前から始まっている。人間の営みのすべてが、鉄道で言えば、レールの無くなったところにレールを敷きながら、道の無い所に道を創りながら歩まなければならなくなった。企業も、学校も今までと同じことを繰り返していては生きていけないことを自覚し、新しい道を敷き始めた。

教会も1960年代に気付き始めた。偶然に世界中で聖書の読み直しがおこった。神様が愛しているのは「教会」であり、教会の外の人々を「教会」迎え入れることを伝道と教えられてきた。しかし、先入観なく、生活の現実を見つめて聖書に聴くと、神様が愛していられるのは教会だけではなく、「全ての人々」であり、教会は神さまの愛に少し先に気づいただけであることに気づいた。その象徴的な生き方がマザー・テレサさんであった。だが、現実の教会は、変わることよりも現状維持を選んだ。変化を受け入れ、御言葉に新しく従おうとした若者を教会は嫌い、締め出した。大切なことは、教会はこのままでは枯れてしまうとの危機感があるかどうかである。

ペトロ書の時代は、迫害という「闇」の中をキリスト者は生きねばならなかった。人のことを考えていられない中で、教会の模範になるべき指導者、長老(役員)は威張り、高慢になり、謙遜を失って、眼先の利得で生きて、教会の弱い貧しい人々をかえりみなかった。

言葉を変えれば、孫や曾孫の時代の国や教会の在り方を想起できる人がいないで、眼先の損得で動いてしまった。

なぜ、どの時代も、教会の指導者が権威ぶり、威張り、弱い者に指図したりする教会らしくないことが、今も起こってくるのでしょうか。

それは、「大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受ける事になります」(4)と教えているように、神様からの栄光を受けるという信仰を見失っていた。教会が主イエス不在の教会、一部の人々が教会を私有化してしまった。

違う角度から言いますと、私が蒔いて、私が刈り取るのではなく、私が蒔いて、孫やひ孫が主の栄光を受けるという20年、50年先を見る信仰を失ってしまった。言葉を変えれば、「終末信仰」に立ち帰ることが大切である。神様の前に立って人生を清算する時を信じることを教会(キリスト者)は忘れてはならない。

私たちは生きている限り、思い煩うことがいつもある。波が押し寄せるように、苦悩がやって来る。煩いや苦悩が無くなることが信仰だと誤解している人も少なくない。悩みをいっぱい持っているのに、それが言えなくて、私は信仰をもっているから幸せですと無理をして言われる人もいる。武士道と結びついて成長した教会の遺伝子でもある。教えられてきた信仰は、その通りかもしれません。しかし、聖書は決してそのような信仰を教えていない。「思い煩うな」とも教えていない。思い煩いをあなたの心の中にいつまでも留めておいてはいけませんと教えている。一人で心配したり、悩んだり、苦しんだりしてはいけませんと教えている。聖書には、自分で解決しなさいと、どこにも書かれていない。委ねなさい、と教えている。「神様、どうか、この私の思い悩みを一緒に思い煩ってください」「この、私の心配ごとを、導いて下さい」と祈り委ねることを私たちは求められている。

信仰にしっかり踏みとどまるとは、「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神様御自身」(10)を信じて、お委ねすることでる。困難な歩みではあるが、一人で思い悩まず、神様に問いつつ、聴きつつ、お委ねしつつ新しい年を歩みましょう。

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