2012年9月16日の説教要旨

「神に向って悔い改めよう」

コリントの信徒への手紙二 7章2節〜16節

パウロのコリント教会の人々への愛は誰にも負けないほど強く大きいものであった。パウロはキリスト者を神様に敵対する者として迫害していました。しかし、主イエスの十字架と復活を通して、迫害していた自分が神様に愛されていることにパウロは気づかされた。同じように、コリントの町の一人一人を神様に愛されていることを伝えようとした。

しかし、コリント教会の人々ですら、パウロが愛すれば愛する程、コリント教会の主だった人々から批判され、誤解を受けた。彼らの批判は、2節の書かれていますように、パウロはコリント教会の中で、不義を働く者、破滅させる者、だまし取る者、責める者等の批判を受け続けていた。不義とは、「いじめる、害を及ぼす、傷つける、不都合なことをする、滅ぼそうとする、不正を働く」等である。

愛すれば愛するほど、誤解され、誹謗、中傷されたパウロは、「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(5)と語る。信仰の世界では、教会の外の人々との戦いは当然であり、ある意味では、それらは苦痛でも悩みでもない。むしろ、パウロは教会の中の人々からの誤解の批判に悩まされた。ユダヤ人キリスト者やギリシャ人キリスト者の両方からの攻撃に悩まされた。また、テトスと合えないことでも大きな不安、恐れはあった。第二コリント2:12「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」とその心境を語っている。

一人の人によって、心が不安に襲われたり、また逆に一人の人によって、希望が与えられたりする。人間はそれほど弱い存在である。不安や恐怖や悩みを抱えているのが人間である。祈りを必要とするのが人間らしさでもある。

誤解に誤解を繰り返すコリント教会の人々に、パウロはコリント教会に一人一人を愛している自分の心を見て欲しいと思い続けていた。コリント教会の人々もパウロに心を開いて欲しいと思っていた。また、3節のように、いつもコリント教会の一人一人がパウロの心にいて、この人たちと生死を共にする覚悟をしていた。裏切られても、信頼を寄せ、誇りと思い、慰めを与えられ、苦難の中にあっても、主イエス・キリストを信じる人々の群れであるコリント教会の存在が、パウロの心は喜びに満たされていた(4)。

気落ちしたパウロを力づけてくれる神様は、テトスを送り、慰めを与えられた。テトスとの再会だけではなく、コリント教会の人々が、パウロを慕い、パウロを批判したことを嘆き悲しみ、パウロを助けることに熱心であることを伝えられた。

パウロはコリント教会に相当厳しい手紙を書いたことを後悔していた。ところが、テトスによると、コリント教会の人々は、パウロの厳しい言葉に悲しみながらも、悔い改めていたことを知らされた(9)。パウロの心配、不安が吹っ飛んだ。パウロはコリント教会が悔い改めたこと聞いて、慰められた。

最近は、日本の総理大臣も短命で次から次に変えられてきた。それは、決して良いことではない。問題は、総理大臣を選んだ国会議員や国民が悔い改めることなく、総理大臣の首を取り替えていることである。最近ではテレビでも、総理大臣を呼び捨てにする場面がよく見られる。それは教会も例外ではない。日本の教会だけではなくアメリカの教会でも、教会が悔い改めることを忘れて、教会の問題を牧師の交代で曖昧にする傾向が強い。その根本的な問題は、人に悔い改めを要求するが、自分は悔い改めない傲慢な信仰の現れである。言葉を変えれば、神様や聖書の御言葉によって、自分を変える努力をしたくない傾向が強くなっている。神様に聴従したくない傾向が強い。教会の主(あるじ)の地位を神様から人間が奪っている姿である。

アブラハム的に言えば、主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」(創世記12:1以下)。

私たちは、無意識に、神様の御言葉に聴従する信仰は出来るだけ避けたいと思っている。私の今の生活を壊したくないと思っている。だから、聖書から離れた生活になる。当然、御言葉に従うことによって与えられる信仰の喜びと出会うことない。神様からの慰めと出会うこともない。

パウロはコリント教会の人を怒らせたいのではない。神様に聴従する生活を通して、御言葉から示されたことを語り続けた。それはコリント教会を怒らせることとなった。それでも、神様の言葉を語り続けた。そして、闇の中に、光を見出した。コリント教会の悔い改めが起こった。

悔い改めとは、アブラハムのように、神と向き合って生き、御声に従う生活である。今の生活を守ることではなく、全てを神にお返しして、神に向かって悔い改めることである。自分を捨て、神様と共に新しく生き、新しく出発することが信仰者の歩みである。信仰者にとって、共に神様の前に悔い改めることが出来ること以上の喜び、感謝、慰めはない。共に祈れることこそがキリスト教信仰の喜びである。

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