2010年9月5日の説教要旨

「主イエスの名のためなら」

使徒言行録 21章

パウロは、自分の希望ではなく、霊に促がされて投獄と苦難が待ち受けているエルサレムに向かう(20:22)。パウロは聖霊によって、「死」を覚悟してエルサレムへ向かう。同時に、4節を見ますと、ティルスの弟子たちも、「霊」に動かされて、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言ったと書かれている。また、10節以下でも、アガボという預言者が、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って、エルサレムで、ユダヤ人はこの帯びの持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡すと語っている。パウロを慕い、愛する人々はエルサレムにいかないように、しきりに頼んだと書かれている。

神様の「霊」がパウロにはエルサレムへ行けと命じ、パウロの弟子たちにはエルサレムへ行かせるなと、相反することを命じられているように思える。しかし、そうではありません。聖霊は、パウロにも弟子たちにも、エルサレムで投獄と苦難が持ち受けていることを教えた。弟子たちは投獄と苦難が待ち受けているエルサレムへパウロを行かせたくなかった。パウロへの愛から引き止めている。彼らは、神様の御心に生きることを忘れている。パウロも投獄や苦難が待ち受けているエルサレムへ行きたくなかったでしょう。それで、一人で陸路をとおり、孤独の中で神様に問い続けた。祈り続けた。

パウロも、十字架を前にした主イエスの「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ福音書14:36)と孤独に身をおいて祈っていたのでしょう。その結論が、「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13)との信仰の決断をし、弟子たちに語った。
またパウロは「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいだだいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとはおもいません」(20:24)と言い切っている。この力強いパウロの決心に、エルサレムへ行くことを反対していた弟子たちも「主の御心がおこなわれますように、と言って、口をつぐんだ」(14)。

私たちの生活でも、忘れてはならないことは、自分の願いの実現ではなく、いつも、「御心に適う生き方を選び取ることができますように」との祈りである。家族が、友が、子供が、孫が私たちの思い通りに育たなくても良い。学校や職場で思い通りに行かなくてもよい。大切なことは、「主の御心がおこなわれますように」との祈りある生活である。執り成しの祈りができることは人間の最も尊い行為である。自分の知恵や経験で自分の人生を計画することは大切である。しかし、私がしたいこと、私の夢の実現を最優先している限り、神様をお迎えする余裕が生まれてこない。神様のお迎えすること、神様の御心がこの身に実現するためには、私の夢や計画が壊され、曲げられる必要がある。信仰に生きるとは、自分の好きなように生きることではない。盆栽が針金でくくられ、曲げられ、切られるよう、明け渡す心が大切である。信仰とは、神様の御栄光のために、私の計画、夢を諦めることでもある。

神様の栄光のために生きることは自分の死に備えることでもある。私たちが生きる時、「明日、死ぬ者として今日を生きる」ことが大切。同時に、「永遠に生きる者として今日を生きる」ことも大切。明日、神様の御許へ帰るために、神様が最も喜んでくださるお土産を準備することが大切。神様の御声に従う時、失うものが多くある。しかし、失うもの以上の恵みを与えて下さるとの確信が信仰である(歴代誌下25章)。

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