2010年8月29日の説教要旨

「御言葉に信頼する」

使徒言行録 20章

農耕民族である、私たち日本人はいつも、周りの人とのバランス、調和を重んじる環境で育ってきた。没個性的であることが生きる知恵であると今まで日本人は基本的に考えていた。みんなの中に隠れるように生きる知恵を持っている。あの人が行けば私も行く。誰かが協力すれば私もする。私たちは、「私」という単数ではなく、「私たち」と複数で語ることが多い。子供も買って欲しいほでぃいものがあれば、「クラスの皆が持ってるから買って」と言う。一人が言えば、みんなが言っているよと言う。多数の中に身を置いて安心する。内心、反対であっても、強い人や意見に従ってしまう。見えざる、聞かざる、言わざるが生きる知恵となっている。

日本の社会は責任をあいまいです。誰の責任でもない、みんなの責任だと言い、誰も責任を取らない。多数の中に隠れて、個人の責任を取らない社会は、神様との関わりも曖昧となる。子育ても、神様からお預かりした子供を独立させることより、過保護的になって、自主・自立を妨げる。その象徴「へその緒」を残す習慣である。日本では、古くから、「へその緒」を残す。「あなたがわたしから生まれてきたのよ、これがその証拠よ」となる。日本の「へその緒」に対して、欧米の伝統的習慣は、初めて親から離れ、独立して、歩いた時の「靴」を残し、孫もその靴を履く。

聖書が教える独立は、ナンバーワンではなく、一人一人がかけがえのないオンリーワンであることを強調する。イザヤ書43:7で、「彼らは皆、私の名によって呼ばれる者、わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」と聖書は語ります。服屋さんが一人一人にあった服を仕立てるように、それも、私の栄光ではなく、神様の御栄光に役立つために、創造されている。そして、イザヤ43:4に書かれているように、私たち一人一人に神様は、「わたしの目にはあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛する」と語る。

パウロはトロアスからアソスまで、仲間との海路の旅から離れ一人で陸路を歩いた。人間は生きる力を身に着けるためには、一人で悩む、一人で考える、一人で何かをする、孤独になることは大切である。パウロは、霊に促がされて行くエルサレムでは投獄と苦難が待ち受けていることを知っていた。だからこそ、人に頼らず、孤独の中で、神様と向かい合った。17節以下はパウロの訣別の説教です。主イエスをキリスト(救い主)である信仰の証を求めている。そして、「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継ぐことができるのです」(32)と語ります。この御言葉という地図に従って進みなさい。そうすれば、神様の祝福の御国へ間違いなくたどり着きますとパウロは語っている。

信仰は共に礼拝を守ることですが、同時に一人ぼっちになって、神様のみと語り合う祈りの時が不可欠である。礼拝は信仰の花、祈りは信仰の根である。根のない花は枯れる。しかし根があれば、また花が咲く。どれほど聖書について雄弁に語れても、神様の前にひざまずき祈る信仰がなければ、その信仰は傲慢となる。

孤独、闇、涙、不安、恐れ、苦悩などを誰も歓迎しない、しかし、信仰はこれらの中で成長するのです。孤独や不安の中で、神様に導かれることは信仰の世界だけではなく、人間としても大切なことです。「何をしても許される」環境にいることが信仰ではない。「どうして良い皮から不安の中で、「神様・・・、神様、・・・」と静まって祈ることが信仰でる。

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