2012年9月9日の説教要旨

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」

コリントの信徒への手紙二 6章1節〜7章1節

主イエスの「十字架と復活の神の愛」への応答よりも、自分への愛が強かったコリント教会は、主イエス・キリストに従う一致が崩れ、人間の思いが先行する、今日の政党の派閥のようになっていた。

そのような教会に対してパウロは、はっきりとした主イエス・キリストへの信仰に立つために、信仰と不信仰、正義と不法、光と闇、キリストとペリアル(人間化されたサタン)、神殿と偶像の二者択一を迫っている。

神様が主イエスの十字架と復活を通して、私たちに与えて下さった「和解」は心にも思い浮かばないことである。無価値な「私」を無限の価値ある「主イエス」以上と決めつけてくださった。あり得ないこと、あってはならないことが実現した。それは驚きであり、奇蹟であり、信じられない事実である。

神様の祝福、赦し、恵み、平安は旧約の創世記の時代から、人々は待ち続けていた。「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」(イザヤ49:8)との約束の日を今か、今かと旧約の人々は待ち続けた。その日が来た。その日が、今、主イエスによって実現した。

神様からの祝福、赦し、恵み、平安の良きおとずれが現実となった時、人々が喜んで受け入れるべきであった。事実は全く反対で、主イエスを拒否し、十字架にかけ、この世から追放した。これは私たちの内にも潜む人間の罪深さである。人間は神を自分に従わせても、神に従うことを嫌う。

人々は、神様の御言葉を受け入れない。まして、我々の言葉を受け入れることは考えられない。だから、諦めるのではなく、良きおとずれを語り続けなければならない。それが十字架を負う信仰の道である。

そのことを4節以下で語っている。神に仕える者には、大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓に耐えねばならない。その中で、主イエスの十字架と復活を通して神様の愛を知った者は、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛を持って仕えて行く信仰者の道をパウロは教えている。

主イエスと共なる道は、「辱めを受け、悪評を浴び、人を欺いているように言われることを覚悟しなければならない」(8)。その中で、主イエスの十字架と復活の愛を想起し、悪に悪を持って報いるのではなく、誠実に、率直に語り、心を広く開くことをパウロは勧めている。

その背後に、第二コリント4:7のパウロの自身が土の器であることを忘れなかったことがあるのでしょう。福音を語る自分がどんなに批判されても、恥かしめられても、そのことに右往左往しないで、中味、「あなたにも神様の祝福が、赦しが、救いの手が差し伸べられているのですよ」と良きおとずれを伝える使命に生きたのでしょう。

パウロは、11節以下のように、心を広く開いて、すべての人を救うまことの光としての主イエスを、例外なくすべての人に伝えていた。ところが、コリント教会は、心を狭くしていた。第一コリント1:12〜13で、「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。」とパウロが言うように、教会は政党の派閥のように、誰を支持するか、ユダヤ人キリスト者かギリシャ人キリスト者で分かれ、出身地で分かれ、その他いろいろなことで分かれていた。すなわち。主イエス・キリストに従う一致が崩れ、人間の思いが先行していた。

パウロが言いたいことは、コリント教会の皆さん、島之内教会の皆さん、神様はあなた方の間に住んでおられますよ。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(レビ26:12、エゼキエル34:41、サムエル下7:14)。あなた方を神様の息子、娘として縁組していて下さるのですよ。「父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる」(18)。

だから、自分を聖別しなさい。自分を清め、神を心から畏敬し、この地上のものと決別して、神様の国に帰る者として自分自身を区別しなさいと迫ります。今がその日、今がその時である。何をどのようにするのか、それは主イエスの十字架と復活によって与えられている神様の愛に一人一人が応答しなければならない。

主イエスを救い主と信じる決断、礼拝を選ぶ決断、御言葉に聴従する決断、祈りを豊かにする決断。その決断の時は、今日、今なのです。明日は永遠に来ない。昨日は帰って来ない。人が生きるのは今日一日、今の一瞬のみである。今日、信仰的な決断が出来ることが恵みの時、救いの日となるのである。

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