2010年9月19日の説教要旨

「主イエスに励まされ」

使徒言行録 23章

パウロはユダヤ社会での最高の決定機関である最高法院に引き渡され、権威ある議員の前に立たされた。最高法院の主流派はサドカイ派の人々で、一部がファリサイ派の人々であった。パウロはサドカイ派の人々とファリサイ派の人々が対立することを計算に入れていたかのように、「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6)と語りかけた。すると、サドカイ派の人々とファリサイ派の人々との間で論争が生じ、最高法院は分裂状態になった。千人隊長はパウロのことが心配で、力ずくでパウロを助け出し、兵営に連れて行った。また、12節以下を見ますと、40人以上のユダヤ人がパウロを殺す陰謀を企て、パウロを殺すまで飲み食いしないと誓いを立てていた。

このように、神様に聴従する生活は人に歓びを与えるよりも、憎しみを与えてしまう。また、喜びではなく悲しみを体験させられることが多い。光ではなく闇を、希望ではなく絶望を味わうことがはるかに多い。それを避けないで、逃げないで、聖書の御言葉に愚直にも留まることが十字架を背負う主イエスと共なる歩みである。

どんな社会でも、悪が栄え、善が滅びる現実がある。だから、栄える悪を選ぶのではなく、滅びても善を選ぶ道が神様に祝福される道である。主イエスの十字架に従う道である。闇を経験すること、行きたくないところへ導かれること、絶望を経験することは辛いけれども、それが人間の尊厳でもある。

パウロも神様の御用をして、牢屋に入れられることには矛盾を感じたことでしょう。そして、「なぜ、なぜ・・・」と祈っていたのでしょう。しかし、パウロを憎んだユダヤ人がどのような陰謀を企て計画しても、神様はその陰謀を逆に用いて、御心を実現なさいます。即ち、パウロをローマへ遣わす手段に用いられた。

  

「その夜、主はパウロのそばに立って、『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」(11)と励まされた。「夜」に神様がパウロに語られたように、私たちにも「夜」に神様が語られることを忘れてはならない。旧約聖書でも新約聖書でも、夜に神様は語りかけてくださる。希望の見出せない夜に、不安の中で恐れている夜に、一人でこっそり涙を流さなければならない夜に、「神様、・・、イエス様、・・」と聖書を開いて祈れることが信仰である。神様が語られるのは幸せを感じる日中ではない。太陽が沈んだ、冷たい夜に神様は私たちの側にいて語りかけて下さる。闇は恵みの時でもあり、神様に導かれる時でもある。

主イエスもしばしば独りになって祈っておられた。夜を徹して祈っておられた。夜が象徴する、闇、不安、恐怖、悲しみ、孤独等を経験することは辛いが、決して無意味な経験ではない。夜は神様と二人になれる恵みの時でもある。夜、闇の中で、聖書を開き、「主よ、助けてください。導いてください。手を離さないでください。・・」と祈れることが信仰である。

希望や願いと逆の道を歩かされることが多々ある。しかし、神様の救済史の中に生きていることを忘れてはならない。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)のである。

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