2010年10月3日の説教要旨

「闇夜の道も主の道」

使徒言行録 25章

パウロは2年間も監禁された。それは、パウロにとって不本意であり、納得できないことであり、闇であった。当然、パウロは不平不満をいっぱい語っても当然である。しかし、パウロは何もつぶやいていない。それはこの苦難の道も、主イエスと共に歩んでいるとの確信を抱いていたからである。この道こそが神様に祝福される道であると信じていた。

出口の見えない苦悩に耐えることは難しい。特に、現代人の生活は耐える必要がなくなっている。現在人の生活は本当に便利になり、人間に大切な我慢する心、耐える力を必要としない。ペットポトルを持ち歩いていますから、喉の渇きを我慢する必要がない。また、携帯電話も私たちから我慢する力を奪い取っている。自分の心の中で、何かをぐっと我慢する力、耐えて待つ力が育ちにくい。だから、心の中に何かをしまいこんで置くことができないで、直ぐに人につぶやいてしまう。しかし、人につぶやく姿は実は見えるものを見ているのであって、信仰によって歩いていない。信仰に生きる者は、見えるものではなく、見えない信仰によって生きていることであり。言葉を変えれば、神様と語り合いながら、神様に祈りながら、神様に聴きながら歩むことが信仰者の道である。人につぶやかず、神様に告白しつつ歩む人が信仰者である。信仰に生きることは、人を見ることではない、人の同情を求めることでもない、人に不満をぶつけることでもない、人からの誉れを求めることでもない。信仰に生きるとは、神様を見上げて生きること、すなわち、聖書の御言葉を見つめ、慰められ、励まされ、導かれる生活である。

私たちも油断しますと、人の同情や関心を求め、神様の御言葉から離れしまう。人の賛同を得ると信仰の正しさと錯覚してしまう。ファリサイ派の人々や律法学者たちもお互いに褒めあって、自分たちの信仰の正しさを確認していた。しかし、その確信も、主イエスから、偽善者、白く塗った墓と言われるほどの不信仰であった。また、その間違った確信が弱い人の純粋な信仰を破壊する凶器ともなった。

私たちは、不安を覚え、悩みを抱える時、人の甘美な言葉は魅力的である。しかし、そのような時こそ、人と離れ、孤独になって、心を沈めて祈ることも大切である。主イエスもしばしば、弟子たちと離れ、一人で山に登られ、一人で祈られた。人生の岐路では、人に近づくことよりも、孤独の中で神様と聖書を挟んで二人になって、静かに祈る時を選び取る生活が選び取りたいと思う。それが信仰生活と言える。

誰かに聞いてほしい、誰かに知っていて欲しい、誰かに認められたいと私たちは思う。しかし、神様に聴いてもらうこと、神様に知っていただくこと、神様に認められること、祝福していただくことが信仰者の願いである。人間的には孤独の中である。

孤独の中で、闇の中で生きることは神様の祝福、恵の御手の外に追いやられているのではない。闇夜も神様の御手の内、ご加護の内である。全被造物は神様の御手の内に存在している。信仰に生きるとは人から離れて、孤独の中で神様を見上げ、御言葉に聴き、励まされ、導かれる生活である。

神様は約束していてくださる、「あなたの先を進むのは主であり、しんがりを守りのもイスラエルの神だから」(イザヤ52:12)と。あなたが歩んでいる闇夜は神様に見捨てられた道ではない。主が共に歩んでいてくださる恵みの道である。

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