2010年6月20日の説教要旨

「信仰と不信仰は紙一重」

使徒言行録 11章

ユダヤ人以外の人々(異邦人)が、主イエス・キリストを信じ、神様の御言葉を受け入れたことをエルサレムの教会の指導者たちも、ユダヤ人キリスト者も伝え聞いた。恐らく、信じられないほど驚きと喜びを感じたことでしょう。

感謝して喜べる出来事も、ある距離を置いていると素直に受け入れられるのに、身近で起こると、受け入れられないことがしばしばある。 ゴミの収集場や焼却炉の必要を認めながら、自分の家の近くに来ると反対となってしまう。

外国人が神様の御言葉を受け入れたことを耳にし、ユダヤ人キリスト者もそのことを喜び、受け入れた。ところが、指導者のペトロが、自分たちをさておいて、割礼を受けていない外国人と一緒にいること、しかも、食事を共にしていることが面白くない。

どんな社会でも、自分より、他の人が先に何かを知ると、私は聞いていないとへそを曲げる人がいる。連絡網での連絡が逆に流れるだけでも、なぜ、と怒る人もいる。言葉では、「私は罪人の頭です」と言いながら、自分が無視されたり、自分より他の人が先に情報を知っただけで気分を害する程、私達は傲慢である。

教会は主イエスの憐れみによって、赦された者の集まりですから、どんなことがあっても、他人を非難出来ないはずですが、現実は、そうはいかない。主イエスは「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)と教えています。それなのに、私たちも周りには、他人への非難や怒りや不満に満ち溢れている。

私たちは、常に、キリスト者として、いかにあるべきかを考えて行動しているわけではない。適当に生きていることも多い。いかに、ちゃらんぽらんに生きていても、ここという時に、信仰が生きて働くことが大切である。

私が遣わされたある教会で、最初から最後まで支えてくれたご夫妻がいた。この方の父は大酒飲みで、田畑を全て無くされ、多くの借金を残された。彼は父の借財の返済に苦労をされた。日中は他人の田畑を手伝い、早朝と、日が沈んでから、月の光や懐中電灯を頭にくくりつけて働かれた。他方、奥さんは、警察署長のお嬢さんでした。当時、借金だらけの男と、警察署長の娘の結婚など考えられない時代でした。キリスト者であった警察署長のお父さんは、娘の結婚で、相手の借金や学歴などを一切問わなかった。愛する娘の結婚で一番大切にされたのは、主イエス・キリストへの信仰であった。彼がキリスト者であることを信頼し、娘の結婚を認められた。

私たちの現実は、信仰の力が発揮されなければならない時に、信仰の決断が出来ないことが残念ながら多い。信仰の力を発揮すべき時なると、私たちは、主イエス・キリストを信じた以前にもどって決断してしまう。私たちの誕生と死は、神様がお決めになる。だからこそ、信仰に生きるものは、人生の途上での、結婚や、就職や人間関係の中で、信仰の決断を1つでも2つでもしたいと思う。

私たちは日頃、立派なことを語っていても、いざという時に、キリスト者以前にもとってしまう。即ち、主イエスの馬小屋について語りながら、私たちの足は、心は宮殿の向かっているような矛盾を含んでいないだろうか。

ペトロを非難したユダヤ人キリスト者は主イエスを信じながら、主イエスと出会う以前に戻ってしまっていた。古きものを捨てることが出来なかった。誰もが、この信仰と不信仰の狭間で生きているのです。

私たちが、「静まること、神様を讃美する(18)ことを忘れますと、旧い自分に逆戻りとなる。旧い自分に逆戻りしないように、「硬い決心を持って主から離れることのないように」(23)に決心を新たにしましょう。

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