2012年6月3日の説教要旨

「試練と逃れる道」

コリントの信徒への手紙一 10章1節〜22節

学校のクラブなどで、先輩からの訓練という「いじめ」に合うと、多くの人は上級生になったら、こんな「いじめ」をしないようにと思う。先輩からやられて嫌であったことを、後輩にしないでおこうと思う心がありながら、練習、訓練と言って、先輩にやられた同じ「いじめ」をしてしまう。

人はいじめられたり、失敗をしたり、不本意な時は、辛いが、実はそのときこそ、人間は、良い考えや、正しいことを思考できる。逆に、何でも勝手に自由にできる時は心に潜んでいるいじわるな面が出てしまいます。その意味で、自由な時よりも、不自由な時の方が人間は健全といえます。言いたいことを何でも言える時よりも、言いたいことが言えない時の方が健全なのです。いじめる悪より、いじめられる涙を神様は見つめ、祝福してくださるのです。

大家族の中で生活した嫁の多くは、あんな姑にならないでおこうと堅く誓いながら、姑になると姑と同じことをしてしまう。人は、自分が見てきた、良い見本と悪い見本があれば、多くの場合、悪い見本を真似てします。

イスラエルが北王国イスラエル(10部族)と南王国ユダ(2部族)に分裂していた時、南王国ユダはその力では北王国イスラエルには敵わない。ある時、北王国から、連合して北の大国アラムと戦うことを求められた南王国のヨシャファト王は、「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。 しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言った(列王記上22:4〜5)。これが信仰です。

ユダ王国は小国であり兵力も弱い。人間の知恵と経験でイスラエルや諸外国との戦いでは勝てない。怒らせないように、反感を買わないように気をつかいながら、弱い者の最後の切り札は「まず主の言葉を求めてください」である。あなたの計画は「神様に祝福されていますか。神様の御心だとお思いですか」。「静まって、神様と向き合って下さい。」これが弱者の知恵です。これが信仰者の知恵です。

この10章は出エジプトのことから書かれています。先祖のように、失敗しないように、神様から滅ぼされないようにとの警告をこめてパウロは教えています。悪をむさぼるな、偶像礼拝をするな、みだらなことをするな、キリストを試みるな、不平をつぶやくな、それらは、私たちと神様を引き離す原因になるよと教えているのです。

どんなに、不本意なことが起こっても、試練にあっても、倒れないように立っておれ。どんな試練も苦しみも、神様に見捨てられた「しるし」ではない。真実な神様は私たちをふさわしい人間に造り上げるために、訓練される。愛の神は決して絶えられない試練に合わせることはないよ、と語ります。

申命記8:4「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」神様の訓練は、必ず出口を備えていて下さるのです。

信仰者は、神様の「時」を待つのです。私の願っている「時」ではない。先週の祈祷会で創世記8章を学びました。ノアたちは1年近く箱舟の中で苦労をしました。創世記8:13〜20「 ノアが601歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。14節「 第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。」 15節神はノアに仰せになった。 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。・・・ ノアは主のために祭壇を築いた。」この14節と15節の間が信仰です。

一刻も早く箱舟から出たかったことでしょう。しかし、ノアは神様の「箱舟から出なさい。」との御言葉を待ちます。神様の時を待つ生活が信仰です。

どんなに苦しい時も、悲しい時も、孤独な時も、神様が働いて下さる「時」を待つのです。一人の礼拝をしっかり守りながら待つのです。主の復活の朝、共に集って、神様を賛美することを忘れず、私たちに贖い、救い、許しのための主イエスの十字架と復活を想起し、パンを裂き、ぶどう酒を頂きながら、主の再び来たりたもう日を持ち望みましょう。

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